8月下旬の猛暑の日に下見をした勝頼エレジーの道・第1回、きょうが本番です。
爽やかな秋晴れの日となりました。
集合は新府城跡下の駐車場です。
向こうの小高い丘の上が新府城址。リーダーから資料と説明があり、ストレッチをしてから出発。

下見のときは「兵どもが夢の跡」という風情でしたが、今はもう「秋草」です。

確か、大河ドラマ「真田丸」のときに道や標識などが整備されました。これは登る途中にあった井戸の跡の説明です。
湧き水ではなく、雨水を溜めたとリーダーから説明がありました。

頂上の広場です。4月上旬は下界にピンクに染まる桃畑も広がり、桜の名所でもあります。
本丸跡の標識のところで集合写真。

新府城址から1キロほどのところに、光明寺。
ここには木曽義昌の人質となっていて、処刑された嫡子千太郎・その姉・義昌の母のお墓があります。

名前がわかるのは千太郎だけで、あとは姉・祖母と書いてありました。
処刑された踊躍原を通って・・・塩川を渡り、坂を上り、涙の森へ。かなり暑くなってきて水分補給もこまめに。

涙の森。勝頼夫人の歌碑が建っています。
うつつにはおもほえがたきこのところあだにさめぬる春の夜の夢がたき
勝の家さんでお昼を頂き(4人テーブルには2人、となっていました)パワーを頂いて、さらに進みます。

回看塚(みかえりづか)。ここにも歌碑があります。
春がすみたちいづれどもいくたびかあとをかへして三日月の空
ここからは塩崎駅まではほぼ下り。
下見のときも思いましたが、総勢600人とも700人とも言われる一行が40キロ先の勝沼大善寺まで歩いたとは!
(大善寺についたときには40人位になっていたらしいです・・・?)
きょうの14キロで十分なんですが・・・がんばって、次回・次々回も歩いてみたいです。
昼食時のお隣の(準会員?)Fさんより、40年以上前の山梨日日新聞社の本?のコピーを頂きました。
「勝頼落去の道筋考」です!
帰ってから読んでみると、天正十年(1582年)3月3日の朝、築いたばかりの新府城に火を放ち、岩殿山に向かって落ちていくのですが、その年の「正月、木曽義昌が織田信長に内通したことにより、勝頼は3000の軍勢を差し向け、鳥居峠で合戦したが散々に敗れて退いた」とあります。なんと!次回の「ぶらり中山道第4回」でその鳥居峠を通るのです!
同じ年のたった2ヶ月の間のできごとだったのですね・・・!